
描き絵と私

「描絵(かきえ)」とは 元禄時代に琳派の絵師が小袖(キモノ)や羽織裏に直描きした「纏う絵画」です。現存する尾形光琳や酒井抱一らの描絵小袖を拝見すると、「大胆な絵柄」と「縫い目の上を走る見事な筆跡」に圧倒されます。
京のお洒落な女性や江戸の粋な町衆が「人気絵師にオーダーした一点モノを着て街歩きを楽しむ風俗」が大流行して贅沢禁止令が二度も発令されました。
端唄「深川の粋な芸妓の裾模様 春雨に濡れて流るる、、、」が物語っているように、当時は色止め技術がなかった為「水で消えてしまう儚ないモノ」として廃れていきます。ですが、人々の熱情は後の「濡れ描き」や現在の「友禅染」を産みだす大きな原動力となったのです。
琳派への
オマージュ

京都造形芸術大学へアラフォー入学して独自技法を確立したもののデザインコースは絵画作品だけでは卒業できません。
苦肉の策で提出した写真集「布に鱗を描いて身に纏って鯉に変身した私が滝空間と一体化」という企画案は見事に全面否定され、、、「本当に今まで誰独りとして作品を纏った絵描きはいなかったの?そんなに不思議な事?」悔し泣きで大学図書館に籠城。
半月後に「染色文化論」から、上記のような「描絵」の史実を発見して大感激した私は、自身の芸術活動を「c玉城和美の描き絵空間」と命名。
「日本の貴重な古文化を京野菜の販促エコプランとして現代に再提示する」企画作品で無事に卒業。
20年後の今も「絵画と染色が分かれる瞬間に開花した琳派の描絵の魅力を次世代へ繋いでいけたら素敵!」と夢見ています。

卒業への道

「サインがなくてもTAMAKIの絵だとすぐに分かる!」と身内贔屓で評してくださる独特の画風は、「琳派の骨描き(墨線)」と「 昭和の襖や着物と亡き父が西陣織で産み出していた帯地の絵柄や色彩記憶」がベースかもしれません。
私が一番大切にしていることは敬愛する伊藤若冲さんや田中一村さんと同じく「実写」。墨壺や消せないペンを携え散策中にビビンと心に響いた「神様のデザイン」を戴きます。現場での感動スケッチを見ながら、床に広げた大きな布地に「野趣溢れる植物と共存する虫や鳥たちが奏でるストーリー」を、墨筆で一気に描き絵、、、一番楽しい工程は「彩色」です。
通学中に開始した「365日描き絵を着て暮らす」パフォーマンスがご縁で「水墨研究室」へ日参するようになり、李可染画伯を父君に持たれる李庚教授から雅号を戴きました。「姫素音」(ひめそね読み改め ひめすおん)の名の通り、命ある限り「音が聴こえる美しい蔬果図(そかず)花鳥画を描く女性」を極めていけたら最高です。
「描絵」から「玉城和美の描き絵空間」へ
